代々木上原の幸福書房

 代々木上原駅前の「幸福書房」は岩楯幸雄さんが家族経営で営む街の小さな本屋さんだ。
 地元の人には親しみをこめて「幸福さん」と呼ばれている。
 本が好きな僕は10年前にこの街へ越してきたときに自分の街に馴染みの本屋があることがうれしくて、以来仕事帰りや散歩のついでによく立ち寄っている。小さな店舗でもキラリと光る品揃の書棚が素晴らしいのだ。その書棚はただマーケティングを意識して並べただけのものとはぜんぜん違って、限りあるスペースのなかで地元のお客様が好みそうな本・紹介したい本を岩楯さんが一冊づつ仕入れてきて並べた意志を持った棚と言っていい。
 おかしな話だ。本なんてどこで買っても一緒のはず。だけど同じ買うなら信頼できる人から買いたいという心理がある。対価を払って物を買う行為のなかに、商品以外にプラス何かを得ているのだろうか。

 「このあいだ買ったあの本は面白かったね。」「毎度ありがとうございます。」常連さんと店長の間でそんな何気ない立ち話が聞こえてくる。そうか、これなんだ。この感じがいいんだ。心がほころんだ。

 代々木上原駅を利用するサラリーマンや学生ならば恐らく皆見かけたことがあるでしょう。
 朝には岩楯さんが本を並べていそいそと開店準備をする姿、帰宅時間の頃には明るい店内でひょうひょうと店番する姿、急な雨風のとき店先に平積みされた雑誌を守るためにビニールのカーテンの支度をする姿を、夜11時に本をかたして店のシャッターを下ろしてほっと一息つく姿を。そしてこのルーティーンは春夏秋冬来る日も来る日も繰り返された。

 2018年2月20日で「幸福さん」は40年の歴史に幕を下ろす。
一年365日のうちで休むのは元旦だけ(今年は元旦も店を開けた)営業時間は8:00〜23:00。
この営業時間一つにしても大変なご苦労ではないか。息抜きする時間なんてあるのだろうか。40年間での通算営業時間はざっと計算するとおおよそ220000時間だった。

 今、「幸福さん」はすごい人気だ。名残惜しむ常連さんはもちろんのこと、昔この街に住んでいたお客さんも遠方からわざわざ来店して閉店前に最後のエールを贈ろうと駆けつけてるからだ。

 「営業時間が長いのは体に大変じゃないでしょうか?」
労う気持ちをこめて僕はそう声掛けしてみた。すると、岩楯さんはいつもの笑顔でこう言った。
「好きな仕事をしているのが一番ですから。」

スリー・ビルボード


 アメリカ映画にはいわゆる「ホワイト・トラッシュもの」というジャンルがあるようだ。ニューヨークやロスのように世界に開かれた大都会とは別次元の村社会が合衆国の中にはあって、南部や中西部ののどかな田舎街が舞台だったりして、美しい風景とは逆に、良くも悪くも独特のしきたりに支配されていたりする。
 映画「スリー・ビルボード」はアメリカのミズーリ州エビングという架空の街が舞台。ミルドレッド(フランシス・マクドーマンド)という肝っ玉母さんが主人公だ。半年前に彼女は何者かに娘を酷い仕打ちで殺害された。その悲しみや憎しみは決して癒えることはない。いつまでたっても解決しない事件に街の警察が無力であることに憤り、田舎道沿いの3つの巨大な広告看板を1年契約で買い取ってある作戦に出る。すなわち看板に
 RAPED WHILE DYING(娘はレイプされて殺された)
 AND STILL NO ARRESTS?(なにの犯人はまだ捕まってないの?)
 HOW COME, CHIEF WILLOUGHBY?(何やってるのウィロビー警察署長?)
このようにデカデカと掲げて地元の警察署長を名指しで攻撃して注目を換気しようとしたのだ。
 ところが、突然出現した巨大看板に街中はうろたえる。痛ましい事件で娘を失ったミルドレッドに対しては内心同情をよせていた人々もこの奇妙な広告看板に嫌悪感を禁じえないのだ。
 実は仕事熱心で家族を大事にするウィロビー署長(ウディ・ハレルソン )は人望のある街の有力者であり実際に非難されるような悪人ではなのだ。やがて村社会に不穏な空気が立ち込め、その矛先はミルドレットに向けられてゆく。
 署長の狂信的信者の悪徳警官ディクソン(サム・ロックウェル )はミルドレッドと看板の広告業者に対して強い敵対心をむき出しにして、すぐに暴力的復讐に走り出す。一見救いようのないほど単細胞な田舎者だが、実は心の奥にはピュアな部分を持っていて、あるきっかけから警察官の職業意識に目覚める。徐々に人間的に成熟するにしたがって、救いようのない物語のなかで、どうにか救いようのある人物になって映画をしめくくる。

 僕はミルドレッドのやり方は最近日本でもよくあるメディアを使った攻撃(暴力)を連想した。人間には様々な事情があり、愛と憎しみを秘めたものだが、そのエネルギーを正義感で誇示する人というのは危険なものだ。それは社会の空気を変化させ後戻りできないゾーンに行ってしまう。
 看板にも人間にもアメリカにも表の顔と裏の顔があるようにこの映画も複雑な構造をもっているとことが特徴で、3人の登場人物たちの気持ちの糸が編み重なって、意外ともえいる図柄が見えてくる。

希望のかなた


 われわれ日本人、いや少なくとも僕は難民問題というとどこか対岸の火事のような気がして親身になって考えた経験がない。
 アキ・カウリスマキの難民三部作の一つ「希望のかなた」を観に渋谷のユーロスペースへ出かけた。
 内戦が激化するシリアから脱出してフィンランドにたどり着いた若者カーリドが物語の主人公。彼の希望は生き別れた妹を探し出してフィンランドで暮らすこと、だが官僚的なシステムに阻まれて難民申請をパスすることもままならない。街を歩くだけで差別主義者から激しい暴行をうけ、次第に疲れ果ててゆく。一方同じ頃、妻と別れ、人生の再出発をしようとする老紳士・ヴィクストロムはカジノで稼いだ金を元手にレストランの経営にチャレンジする。二人は同時進行で物語を歩み、ある日、ヴィクストロムはレスランのゴミ捨て場で寝泊りしていたカーリドと出会い、救いの手を差し伸べる。「レストランで働いてみるか?」「Yes very much.」こんな感じの緩い会話から心の交流が始まった。
 アキ・カウリスマキの作品ではよく不味そうなレストランがでてくる。、今作でも壁になぜかジミ・ヘンのポスターが飾られていていい味をだしている。陰影の強いセットに無表情な役者が加われば、いつのまにかカウリスマキ節の哀愁ただよう世界観が誕生する。一体どこを探せばこんな雰囲気のある役者が見つかるのだろうか。特にヴィクストロム役のサカリ・クオスマネンは映画界の宝だ。一見ちょっと怖そうなのだが実はすごく優しかったりして、そこがたまらなくいい。
 カウリスマキは「私がこの映画で目指したのは、難民のことを哀れな犠牲者か、さもなければ社会に侵入しては仕事や妻や家や車をかすめ取る、ずうずうしい経済移民だと決めつけるヨーロッパの風潮を打ち砕くことです」とコメントしている。
 作品は昨今の右傾化する世界情勢への危機感から誕生したものだろうが、監督の手法はこれをユーモラスな寓話に仕立て、政治的主張をスパイスで練り込んでいるものだ。だから僕は身構えることなく映画を楽しんだ。同時に、もし自分が難民になったら?あるいは、もし難民を受け入れる立場だったらどうだろうか?と疑似体験する機会も得られた。
 物語の終盤、念願の妹との再会を果たしたのも束の間、カーリドはネオナチの暴行に倒れ、苦い結末を迎える。しかし、それでもなお希望を失わなかった。是非、彼の瞳を見て欲しい。明るい未来を見つめている瞳に、この映画の一番伝えたかったことが映っている。そんな気がした。

ノクターナル・アニマルズ


 思春期・青年期を過ごして中年期に差し掛かると、特に女性なんかは何かを失ってきた喪失感が心の中を占領することがあるようだ。
いわゆる「もし、あのとき…」というやつだ。
 トム・フォード監督の新作「ノクターナル・アニマルズ」は、この監督が得意とする強烈なビジュアルで突き刺さるような痛みをともなって、在りし日の回想と現在の悔恨を小説世界がループする作品だ。いや、その映画を見ている側も含めて4つの入れ子構造が反響するすごい作品といってもいい。
 現代美術のギャラリー経営をするスーザン(エイミー・アダムス)はハンサムな夫と豪邸暮らしで何不自由なく見える。ところが夫の不貞をわかっていながら見過ごしているような偽りの生活や、かつての夢への情熱を失ったことに疲れ果てている。そなんある日、20年前に別れた元夫トニー(ジェイク・ギレンホール)から一冊の小説が届く。同封の手紙には「かつての結婚生活から着想を得た。昔とはずいぶん違うタッチだけどついに小説家デビューがかなったよ。」といった内容が記されている。なんだかドキドキしてその小説を読み始めるスーザン。ここから映画内小説の場面に突入するが、描かれているのは読者の内面にある「暴力」「悪」「醜さ」だった(と僕は思う)。
 もともと意識高い女であるスーザンは、かつてバイトをしながら小説家を目指すような元夫との切り詰めた生活に耐えられず、彼を下に見て裏切ってきたのだ。その彼が20年間夢を諦めずについにこんなすごい小説を書いたのだ。やっぱり私の元夫ってすごい!と見直したのだろうか。急遽、彼にメールして再会の約束をするのだ。当日、彼の好みのドレスに身を包みレストランのテーブルで彼の登場を今か今かと待つスーザン。ところが、いつまでたっても彼は現れず、ついにレストランの閉店時間がきてしまう。待ち人のブルーの瞳に苦い悲しがみが映されて映画が終わる。
 結局トニーは過去の回想シーンにのみ登場して現代のタイムラインではラストまで登場しなかった。この結末の解釈は見る側に大きくゆだねられていて、これは元夫のリベンジだなどといろいろ言われているが、僕は個人的に作品の謎解きに興味がないのでもはや真意はどうでもいい。ただ最後までトニーが姿を現さなかったことがこの作品の深みを決定づけたと強く感じている。

女神の見えざる手


 2020年オリンピックの開催地が東京に決定した時に、「ロビー活動」の成果ということが盛んに言われた。僕はそのとき初めて「ロビー活動」という言葉を聞いて、ホテルのロビーでこっそり袖の下でもやってそうで、宜しくないイメージを持ったが、何とアメリカにはロビー会社という専門のプロ集団があってオープンに活動しているという。選挙や重要法案の採決のときに暗躍し、世界を動かしているそうだ。団体やマスコミにアプローチして民意をコントロールするのはもちろん、ときには資金調達までこなし最後に勝利の女神を振り向かせる。ロビー活動のプロ、その名もロビイストは現代の花形職業かもしれない。
 映画「女神の見えざる手」は敏腕ロビイストのエリザベス・スローン(ジェシカ・チャスティン)が、銃規制法の可決を目指して、圧倒的な基盤と資金力を持つ銃利権団体と対決する社会派サスペンスドラマだ。
 「絶対に相手よりも先読みして行動する。相手が手の内を出しきった後でこちらが勝負を仕掛ける。」と自身のビジネス哲学を語るところからこの映画は始まる。徹頭徹尾その信条を体現する主人公はスパイさながらの諜報行為もお手のもの、ときには勝つためには味方さえも駒として利用するため、反発を招くこともある。清廉潔白ではないがかといって冷酷無比でもないニュータイプのヒロインは観ていて楽しい。しかしながら、アメリカの銃所持擁護派を敵に回してしまったらちょっと厄介だ。実際にこの前もラスベガスでの銃乱射事件で60人の市民が亡くなったばかりだが、こんな殺人行為を頻繁に起こしているにもかかわらず米国政府は一向に銃規制に乗り出せない。それだけアメリカと銃は切っても切れない関係、間に割って入ろうものなら潰されるのがオチなので、それ見たことかと、エリザベス・スローンも当局から嫌疑をむけられ公聴会に吊るし上げられる。ここで虚偽証言をすれば懲役5年の刑に課せられることは百も承知だが、彼女は「先読み」し「勝つ」ために温め続けていたある秘策を講じる。ここでの最終兵器を出すタイミングの鮮やかさと、自らを犠牲にしてまで巨像に矢を放った勇気に痺れた。。ついでにこの映画での彼女のファッションも素晴らしい。サンローランの黒いスーツやピンヒール、真っ赤なルージュが似合っていて、普通だったら嫌味にしかならないこの手のファッションだが戦う女の戦闘服さながらに格好いい。きびきび立ち回り、てきぱき発言する彼女を見たさにもう一度劇場に足を運んでしまいそうだ。

インターステラー

 CGを使わず、フィルム撮影にこだわったというSF映画「インターステラー」がおもしろいという評判なので、木場の109シネマズへ出かけた。
 異常気象や環境被害に伴い植物がほぼ絶滅し、厳しい食糧難に晒された近未来の地球。人類が滅亡へのカウントダウンを刻むというSFものにお決まりの始まり方だが、本作は地球を救うことはもう諦めて、ワームホールを通過して別の銀河系で地球人が住める惑星を探して移住を目指すというコンセプトがなかなか潔くて好きだ。NASAが秘密裏に進行しているというプロジェクト−ラザロ計画の宇宙船飛行士に抜擢されたクーパー(マシュー・マコノヒー)は残された家族に「必ず帰ってくる」と約束し宇宙へと惑星探索に旅立ったが、戻れる可能性はゼロに近い。クーパーが最初に降り立った惑星では激しい重力のため、ここで一時間過ごせば地球では二十七年間経過したことになるという。したがって、惑星での任務を早くすませなければ、地球で離れ離れに生きている幼い子どもたちが急速に成長し、どんどん大人になって老けてゆくことになる。それなのに、宇宙にいる父親は何十年経過しても若い容貌のままだというから大変だ。こうゆう重力と時間の理論はどうしてそうなるのか僕にはまったくわからないけど、子どもが親よりも老けてゆくという絶望的な気持ちは痛いほどわかった。
 父親のクーパーがずっとマシューマコノヒー一人が演じているのに対して、娘のマーフィーは幼少、成人、老年の3期をマッケンジー・フォイジェシカ・チャステインエレン・バースティンの3人が演じていて、いずれも本当に素晴らい(とくに幼少期のマーフィはかわいい)。話の終盤、スペースコロニーの病院のベッドで、年老いて危篤状態のマーフィーが大勢の子どもや孫たちに看取られる中、若々しい父親のクーパーが登場して再会を果たすシーンは抑えた感じの演出が効いていてとてもいい。人生の終わりを迎えようとしながらも、喜びにつつまれ「子どもの死に親が立ち会ってはダメよ」と優しく父を諭す娘と、再び宇宙へと旅立つ父親の姿は別次元で時間を共有できる素晴らしい関係を見せてくれた。カート・ヴォネガットの言葉を借りるなら、たとえ愛する人の死が目の前にあってもそれは今この時点において死んでいるだけの話であって、それ以外の多くの時間においては二人は繋がっていたというわけだ。

インサイド・ルーウィン・デイヴィス 名もなき男の歌

 芸術の道を志す者のなかにはほんの一握りの成功者とそれを裾野で支えているかのように日の目を見なかった者たちがいるのはこの世の常。だが、当人はみな必死にやっているので、本気で目指す以上、才能がなくて成功しないことはやはり惨めでつらい。
 1961年、ニューヨークのグリニッジ・ビレッジが舞台。まだ音楽産業の黎明期、フォークシンガーとしての成功を夢見るもやることなすこと何をやってもうまくいかない男の一週間ほどの日常譚。成り行きで猫を預かるはめになったところからこの物語が動き出し、猫に振り回されるように物語が進んで行く。文無し、宿無しで服も買えない。仕方がないから友達の家を泊まり歩く生活を続けるルーウィン・デービス(オスカー・アイザック)。そんな暮らしを続けていると同業者の女友達ジーンから妊娠を告げられ、中絶費用を要求される。ジーン役のキャリー・マリガンの口から「asshole!」「shit! 」「fuck you!」などの罵声で罵られるも、言い返すことも出来ないルーウィンは気の毒だ。
 音楽プロデューサーに売り込んでみるも「きみには金の匂いがしない」とあしらわれ、家族からも見放され、職もなく、完全に行き詰まったかに思えたところに、再びグリニッジ・ビレッジのライブハウスに立てるチャンスが到来。実はジーンがライブハウスのオーナーと裏で通じていてルーウィンのステージをお膳立てしてくれたのだ。彼女はギリシャ神話に登場する不貞の女神のように男たちを翻弄する女のメタファーだろう。
 ライブ当日、亡き友との思い出の曲を熱唱するルーウィンの後には、実はこの日出演するもう一人の若いシンガーがスタンバイしている。
 薄暗いステージ上に黒いシルエットが見える。その若者の歌声は独特だが神々しい。
面白いことに、映画鑑賞する側(僕)はこの男が誰なのか一瞬で判るのに、映画の登場人物たちは彼が何者なのかまだわからないのだ。フォークソング時代の夜明けがすぐそこまで来ていることをワンシーンで表している。
 このあとルーウィンは前日のライブハウスでの粗相が原因でボコボコに殴られる。
 なんという皮肉とウイット。
 最後まで何一つ得ることができなかったルーウィン。でも彼は人間であり男のメタファーだ。世界は循環し、次こそはと新たに第一章を歩み始めるように見えたところで映画が終わる。