レネットとミラベル四つの冒険

 エリック・ロメールの「レネットとミラベル四つの冒険」が早稲田松竹でやるというので出かけてみた。

 古い映画なのでスタンダードサイズ(4:3)でフランス語モノラルという視聴環境なんだけど。ちょっと昔のフィルムのザラつき感も良くて、これがすごく落ちつくんだな。

 映画のはじまりで田舎道をこちらに向かって自転車でやって来るミラベル。朴訥なフランスの田舎道に黒いサロペットに真っ赤なカーディガン肩掛けした姿はたまらなくキュートで、ロメールの美的感覚が良く出ている。偶然道で出会った少女レネットに自転車をリペアしてもらったことがきっかけでレネットとミラベルは仲良くなります。
都会的でクールな考え方の少女と、方や田舎育ちで垢抜けないけど真っ直ぐな少女。正反対の二人がフランスの田舎やパリでともに過ごす物語。

 こんなこと言っちゃひどいけど、レネットの身のこなしのダサさいことダサいこと。それと対比して(30年前の映画なのに)まったく古びないミラベルの洗練さが際立ってしまいました。余計なお世話なんですけど。この映画が起伏のないストーリーにもかかわらずまったく一瞬たりとも退屈しないのは定めしミラベルの魅力に尽きるのでしょう。

 第一話「青い時間」 第二話「カフェのボーイ」 第三話「物乞い 窃盗常習犯 女詐欺師」 第四話「絵の売買」の四部構成になっていてそのどれもが面白いのだけど、
 僕は第三部でスーパーで万引きしている女性が警備員につけられて捕まりそうになるところを咄嗟にミラベルが助けるというくだりが案外気に入ってます。女が万引きした戦利品を結局家に持ち帰ったミラベルをレネットは「あなたがやったことは悪いことだ。」と言って咎めます。でも正義感を振りかざすだけのレネットに対して、ミラベルは釈然としません。原因を考えずに一方的に非難したりするのは良くないというふうにやり返します。どちらが正しくてどちらが間違っているかはさておき、単純に会話の和ませたりしないで、自己主張をして反発をするフランス人ってやっぱり日本人とはモノが違うわとショックを受けました。
 エリック・ロメール作品では本作は地味な方なのかもしれないけどフレッシュであどけない感じが気にっています。

万引き家族


 話題の映画「万引き家族」の初日を見にtohoシネマズ新宿へ行った。

 この映画を見て、なぜか日本の古代人のことが頭に浮かんできた。家族というコミュニティで力を合わせ、狩猟採集をやっていた人たちだ。
 歴史の教科書で学んだとおりなら、縄文時代の終わり頃に日本列島に稲作が伝わると同時にやがて権力や法律もできてきたわけだから、もう古き良き時代の家族はますます端に追いやらて立ち行かなくなってきたのだろう。
 「万引き家族」もまた現代社会のシステムから排除されてしまった。日本列島原住民の成れの果てだといったら極論だろうか。
 僕は万引きなどの軽犯罪に目くじらを立てるよりも、なぜ彼らがそのような状況に追い込まれるのかという根本的な原因を考える方が賢明だろうと思う。しかし何よりも、彼らが子どもに対して滅法優しく、それに対して現代社会システムが子どもを置き去りにしているように描かれていることに考えさせれた。

 「万引き家族」の息子・祥太のなかに次第に罪悪感が芽生え始め、そこから共同体の歯車が狂い始めてしまう。
 映画の終盤で彼らはついに逮捕されてしまいます。
警察の尋問で“いかにも正しい人”がやってきて安藤サクラ演じる母親にあなたは間違っていますと詰め寄ります。
具体的には「自分で子ども産めないからって人の子ども盗んじゃダメでしょう。」みたいに言われます。
そして母は惨めさに引き裂かれ涙を流します。
でも、ここまでこの作品を見てきた人は、「ん?…。正しい人はどっちなんだろう。」って考えてしまうのではないでしょうか。

 楽しかった思い出は残酷にも遠い彼方へ去ってゆき、「万引き家族」は崩壊しました。
まだ幼いりんちゃんがこれからどんな生活を過ごすのかとても心配です。
今日もどこかで助けを求めている子どもたちが大勢いることを思うと胸が締め付けられる思いです。

フロリダ・プロジェクト


 傑作の呼び声も高い映画「フロリダ・プロジェクト」を見に新宿のバルト9へ出かけた。
フロリダの眩しい空の下で駆け回る子どもたちの躍動に感動させられると思いきや、、しばらくして、憂鬱な気持ちが襲ってきた。

 アメリカで“プロジェクト”と言えば社会の最下層の市民が暮らすエリアのこと。住民は観光地近辺の安モーテルや廃業した宿を間借りして暮らしている。
フロリダのモーテル「マジック・キャッスル」の管理人ボビー(ウィレム・デフォー)は、6歳になるムーニーと20歳そこそこの母親ハリーの二人家族を優しく見つめている。でも、余計な介入はせず、ただおおらかに見守っているだけ。二人が本当に危機に直面しそうなときにだけ駆けつけて、崖から落ちないように誘導してくれる交通整理のおじさんのような存在だ。ウィレム・デフォーの背中で魅せる演技には、理不尽さを受け入れ、それでも前に進んでいかなければならない美学が顕れていてよかった。

 それに引き換え、ほとんど生活力をもち得ない母親ハリーを見ると本当に滅入ってくる。母娘、友達のように仲良しなのがかえって絶望に僕には映る。

 ビートたけしのお母さんが「貧乏から脱出するには教育しかない。」と言っていたのを突然思い出した。

レディ・バード


 脚本家で女優としても活躍するクレタ・ガーウィックが自分自身の高校時代のことを映画化した作品「レディ・バード」を日比谷シャンテに見に行った。

 冒頭こんな言葉から始まる。
 Anybody who talks about California hedonism has never spent a Christmas in Sacramento. 
(カリフォルニアの快楽主義について語る人は誰も皆サクラメントのクリスマスを経験したことがない。)

 サクラメントがどれほどの田舎なのかイメージが沸かないけど、僕は自分が15年間住んでいた拝島に当てはめて考えてみた。都会じゃないし、かと言って絵になるような田舎じゃない。
 クリスティーン(シアーシャ・ローナン)はサクラメントにあるカトリック系高校に通う多感な17歳。ダサい街から出てニューヨークの大学へ進学することを夢見る。ところが「絶対に行かせないわよ。地元の州立大学へ行きなさい。」と母親のマリオン(ローリー・メトカーフ)は頑として譲らない。
 ここじゃない別の世界にステップアップしたい娘と、現実をわかってもらいたい母のぶつかり合いは、ユーモアを交えてテンポよく進む。母娘はいつも地元のスーパーでいっしょに洋服を買うんだけど、試着中のクリスティンに向かって「お母さんはあなたにベストな状況でいてもらいたいのよ。」とふと漏らした母の気持ちには目も潤む思いだ。それから何らかの理由でお父さんが失業したときにも「お金は人生の成績表じゃないのよ」と言っていたのもこのお母さんだから言えることだ。
 すったもんだの挙げ句、娘がNYの大学へ合格して引っ越しすることになった当日、空港ロビーまで見送りに行かず、やせ我慢をしてうろたえた母の演技に許されるならアカデミー助演女優賞をあげたい。

「愛情とは注意を払って見ることよ。」
カトリック高校のシスターが言っていた。
この映画は平凡なサクラメントの街が、注意深く描かれていて、平凡だけど愛情深い作品でした。

 飲みすぎて酔いつぶれたクリスティーンが朝方のNYからお母さんに電話をするところで物語が終わる。
 終わり方もすばらしい。

犬ヶ島


 TOHOシネマズ六本木でウェス・アンダーソン監督のストップモーションアニメ作品「犬ヶ島」を初日に見に出かけた。

 映像・グラフィックが愛くるしくて夢中にさせる。
犬の表情や動きのなんと素晴らしいことだろう。一見しただけでよく研究されていることがわかる。

 物語の舞台は今から20年後の日本の架空の街。
 この監督の日本文化の解釈はネイティブ日本人のものと微妙にずれているんだけど、そのちょっとしたギャップがキュートで、例えば話の終盤で主人公のアタリ君が小林市長を説得するのに俳句を持ち出すところなんて、最初は?と思いながらも、ある意味日本的かもと思えて新鮮でした。そのときの俳句がこれです。

「なにゆえに 人類の友 春に散る花」

 アタリ君の声を担当したコーユー・ランキン君(カナダ在住のバイリンガル)の声はもちろんプロの声優と比較したら技術的なレベルはとてもかなわないのだけど、この素の声の感じがすごく良くて、後から聞いたところによると、なんと使われた声はすべてオーディションのときに発声した音源だとか。
 目を見張るような熟練されたストップモーションアニメがすごいのは言うまでもないことだが、表現が達者になりすぎないぎりぎりのところにウェス監督のセンスの素晴らしさを感じた。

レディ・プレイヤー1

 任天堂ファミリーコンピューターが我が家にやってきたのは僕が小学校2年生のときだった。ソフトは初期の「テニス」や「ゴルフ」など非常にシンプルなものから始まり、「ゼビウス」「マリオ」にも夢中になった。そういえば誕生日のプレゼントには「スパルタンX」を買ってもらった。ちょうど同時期に映画では「E.T.」とか「グーニーズ」が流行っていて、子どもたちだけでなく大人まで夢を膨らませていた。

 新宿バルト9でスピルバーグ監督作品「レディプレイヤー1」を見る。

 バンヘイレンのテーマ曲「JUMP」が流れて未来のスラム街のスタックスと呼ばれる集合住宅から主人公のウェイドが登場するオープニングシーンでは不思議な懐かしさのようなものがこみ上げてきた。この感じは一体何?…。スピルバーグの描くビジュアルというのはいつの時代にも何か新鮮な気分があるからだろう。
 2045年、人類の多くが現実世界をあきらめて「オアシス」と呼ばれるオンラインVR(ヴァーチャルリアリティ)ゲームの世界に精神的に依存してゆく。バーチャルの世界では自分で好きな容姿のキャラクターになってリアルと殆ど同じ状況感覚で面白い体験がいろいろできる。こんな楽しいことはないだろう。しかし、「オアシス」を創造した神のような男・ハリデー(マーク・ライランス)がその莫大な遺産と会社の経営権をゲームの中に隠したという遺言を残して帰らぬ人となった。これを発見すれば億万長者どころか世界を支配できるとあってリアルな世の中がオンラインゲームに次第に侵食されてゆく。
 一見突飛な話のようだけど、この映画を見て近い将来に世界中の多くの人が日常的にゴーグルを装着してVRとリアルを行き来する時代が必ずくるだろうと思った。

 このハリデーという人は世界一の長者で成功者でありながら、無頓着な風貌がどことなくスピルバーグ本人あるいはスティージョブズを彷彿とさせる。
 夢を実現させたのに夢に敗れたような、なんともやるせない感じでマーク・ライランスは表情一つで成功者の儚さを見事に演じている。ハリデーが、80年代のおもちゃがいっぱいの子ども部屋でウェイドと向き合うシーンが何故かこの映画で一番気に入っている。

「三度目の殺人」「彼女がその名を知らない鳥たち」

 この二作品を観て、ここに出ている役者というのは芝居で食べているだけあってどの俳優も皆うまいもんだなあとあたりまえの感想を抱いて早稲田松竹の劇場を後にした。


 「三度目」では咲江を演じていた広瀬すずが意外に存在感があって、もしかしたらこの娘が事件の黒幕なのかもしれないと、うつろな表情にゾクッとしてしまった。真実というのは一体どこにあるのだろうか。殺人事件の真相は容疑者、被害者の家族、弁護士の三者の立場によってまったく異なったものになってゆく。最後の結末は不気味な容疑者三隅の狙い通りになったようにも見えるが違うようにも見える。落とし所をはっきりさせたい人にはこの映画は歯がゆいだろう。福山雅治広瀬すず役所広司が雪の中で遊ぶシーンが好きだ。


 「彼女が」は普段ナチュラル系で清純なイメージが売りの蒼井優にそれと真反対の役をあてた白石数彌監督の演出が素晴らしい。怖いもの見たさと同じでダメなやつ見たさとでも言おうか、大いに刺激された。男の稼ぎに頼って働きもせず遊んで暮らす十和子にも、それをゾンビのように追いかけ回す陣二にも、二人がなぜそのような関係を続けているのか最後に明らかになる。こうゆう人たちを品行方正に躾けてしまうと物語がストップしてしまう。極論だが、まっとうな人間が至極まっとうなことを言っていたとする。しかし、そんなのはちっとも面白くない。それだったら、どうしょうもない落ちぶれた人間がどうしょうもない屁理屈をとても魅力的に語っていれば、かえって心に響くこともあるのだと教えられた。