サッカーW杯雑感(27日現在)

 27日現在、サッカーW杯の決勝トーナメントが出揃った。
残念ながら、我が日本は予選で敗退してしまったのだが、敗因は何だったのかその総括が行われているところだ。よく言われるのは、ゴール前での決定力がない、当日までにコンディションを最高にできなかった、指揮官に一貫性がなかったなど。
 それは確かにその通りかもしれないけど、じゃ、どうすれば良くなるのだろうか。答えが曖昧に霞んでいる気もする。
 テレビ観戦していて、ふと気づいたんだけど、日本の選手はどこか雰囲気が重たいのだ。表情もだいぶこわばっているではないか。それに比べて、中南米の強国の選手のなんと自由で楽しげにプレーをしていることか。
 そうなんだ。サッカーはある種の遊びであり芸術のようなもので、そこでは独創的なセンスやアイデアが勤勉さに勝るのではないだろうか。努力家が必死に頑張って描き上げた一枚の絵も、天才の一筆には絶対にかなわいように。
 僕は日本人の「まじめさ」のことを思った。
日本では「あの人は真面目ないい人だ」とか「真面目に頑張ろう」など、概ね「まじめ」は良いことと肯定されている。親や教師も真面目にやればきっと報われると子供たちを教育する。これは、あるときから国民の大多数が真面目でなければ統率が取れなくなってしまったので、そこを危惧した上の連中たちが仕組んだのだと睨んでいるが、その話は長くなりそうなので、ここではしない。
 話が脱線してしまった。とにかく日本の社会がこどもたちに「まじめ」を要求しすぎてしまった結果、そこに重苦しい病理が生まれてしまったようだ。今回の代表選手の敗戦の弁によくある「応援してくれた方々に申し訳ない」なんていうのも結局は社会がそれを言わせているのだし、マスコミも勝てば「すごい、すごい」と盛り上げといて、負けた時には彼らの詫びを聞きたがる。これは観ていて辛かった。
 前出の中南米のスター選手、特にブラジルのネイマールなんかはまさに南米の土壌から自然発生的に誕生してきたような天才児だと思う。天才である前に非常に楽しそうにプレーをしていて観ていて気持ちがいい。なまじっか曲がった教育を受けていなからだろうか、素のままというか、まるで野生動物が躍動しているような魅力を感じるのだ。まじめ君が何人束になっても勝てるわけがない。このタイプのサッカー選手が今後日本から誕生するのかと言われれば、う〜ん、それにはまず社会全体の意識やシステムを変えていかなきゃ難しいだろうという感想を抱いてしまった。