illustrationとは何か。「非現実的な夢想家」について思う

illustrationとは何か
ということについて今まで色々な人が色々なところで色々言ってきたと思う。ある先生曰く、まずillustrationとは何かを知らなくてなならない、そのためにはとにかく多くのillustrationを見る必要が有るのだとか。またある先生はillustrationとはメディアの中で機能するビジュアル全般のことで絵の内容のことではないと言っていた。つまり、どんな下手な絵でも歴史的な名画であっても媒体において視覚的な役割をしていればそれはillustrationと言えるのだと。

ぼくにはまだはっきりとはわからないけど、自分なりにillustrationとは何なんだろうってよく考えるし、自分の言葉で問い続けることには意味が有ると思う。なにも大上段からこうゆうものだと語る必要はないけれど。

なぜなら、人間は言葉で世界を認識する生き物なので、言葉を軽んじたり、あやふやに定義するわけにはいかなし、生き生きとした自分の言葉が使えてないと内容も伴わないからだ。

言葉の話で思い出したのだが、先日の村上春樹さんのカタルーニャ国際賞でのスピーチはとてもよかった。スピーチ「非現実的な夢想家」についてネット上では賛否両論だそうだ。賛否両論なのは結構なことだが、読んでみたどの否定的意見にも十分な説得力は見いだせない。スピーチの感想や意見などはまたの機会に述べるとして、ここでは印象的な部分を下記に引用してみる。

その大がかりな集合作業には、言葉を専門とする我々=職業的作家たちが進んで関われる部分があるはずです。我々は新しい倫理や規範と、新しい言葉とを連結させなくてはなりません。そして生き生きとした新しい物語を、そこに芽生えさせ、立ち上げてなくてはなりません。それは我々が共有できる物語であるはずです。それは畑の種蒔き歌のように、人々を励ます律動を持つ物語であるはずです。我々はかつて、まさにそのようにして、戦争によって焦土と化した日本を再建してきました。その原点に、我々は再び立ち戻らなくてはならないでしょう。

3.11以降、今は絵なんか描いている場合じゃないよと言われ、がっかりしたこともあったけど村上さんが言う新しい物語を芽生えさせる仕事のなかに、全てのものをつくる人々が関わっていく必要があるのではないかと感じました。

話は元に戻るけど、illustrationの語源はラテン語のlustrareで「光を照らす」「明るくする」から「人々を導く」という意味にもなる。