西麻布の梅好

 大好きな大阪鮨の店「梅好」は西麻布にあった。
”あった”と過去形で表現しているのは2年前に閉店してしまったからだ。
 今はない。

 老舗らしい店構え、大きな暖簾に扇型の看板は最初は気後れしたが、中に入ればいたって普通の店で気取ったところもまるでなかった。向かって右側の台の上に吸い込まれそうなくらい真っ黒な黒電話が置いてあったのが懐かしい。

 僕の大阪鮨好きはこの店から始まった。
 細切りの海苔と穴子をぎっしりまぶしたご飯の上に絵筆のタッチのような色鮮やかな具材をもった「京ちらし」、まろやかな上方酢でしめた愛嬌たっぷりの「押し鮨」、時季限定の「むし鮨」と「穴子入り太巻き」。折り詰めにしてお花見や紅葉狩りに出かければ「日本人でよかったな」と実感し、一口食べれば自然と顔がほころんでしまう。

 江戸前鮨が今や高級料理になり、果ては芸術品のごとく扱われるのに対して、大阪鮨はまだ庶民の晴れの日ご馳走という位置に留まっている気がする。どうかこのポジションを守ってほしい。

 梅好ではこんなエピソードもある。
 3年前の節分の日のことだ。
 注文しておいた太巻きを受けとりに店の暖簾をくぐった。
穴子入り太巻きを頼んだ太田ですが、できてますか」そう尋ねると、お店のパートさんが名簿のようなものを見ながら
「その名前はありませんよ。失礼ですが本当に予約したのですか」と半分疑うように言ってきた。店は繁盛時期でごった返しており、従業員の対応が多少粗雑になっていたかもしれない。でも、だからといって、そう言われていい気はしなかった。というかかなり腹も立ったが、もう一度「確かに予約したんですけど、名前ないでしょうか」と告げると、パートさんは、まったくもう仕方ないなあという顔をして、お店の責任者である奥さんに伺いをたて太巻きを一本用意してくれた。収まらない気持ちのまま店を後にした。

 翌日、僕の携帯に知らない番号から懸かってきて出てみると、梅好の奥さんだったので驚いた。

「西麻布の梅好と申します。昨日は失礼な対応をしてしまい大変申し訳ございませんでした。」と非礼を詫びる電話だった。
どうやら店のパートさんが予約名簿をよく見ないでミスをしたらしい。
こちらとしても事を荒立たせる気はないので
「いやいや、分かっていただければそれでいいです。太巻きとても美味しかったですよ。」と返事した。
「そうですか。今後も御贔屓によろしくお願いします。」と

 雨降って地固まる。一時はかなり気分を害したが、たとえ店のミスであったにしろお詫びの電話をもらえたのは嬉しい。

 しかし、このとき食べた太巻きが最後、梅好の鮨を食べることは2度となかった。その年を最後に残念ながら閉店してしまったからだ。

 いまでも節分が近づくと、思い出の中のあの味を懐かしむ。お店の奥さんや職人さんたちは今頃どうしているのだろうか。