命日


 昭和40年代中頃、デビュー曲「新宿の女」で彗星のごとく歌謡界に登場した藤圭子さん。立て続けにヒット曲を出して一躍時代の寵児となった。ところが昭和50年代始め頃には突然表舞台から姿を消している。僕が生まれたのが昭和51年、その3年前に僕の姉が誕生している。だから藤圭子さんの活躍時期は丁度、父母が結婚して僕ら姉弟が誕生する頃と同じだ。

 

 そんな藤圭子さんという存在を初めて知ったのは僕が20歳そこそこの頃でこれはよく覚えている。

 宇多田ヒカルというアメリカ生まれのシンガーがこれまた彗星のごとく出現したときだ。僕の周りのおじさん・おばさんたちが、このニュータイプの天才少女を話題にするときには決まって「彼女があの藤圭子の娘なのか」とか「あの暗い歌の藤圭子が母親なの」と言ってすごく驚いていた。中には「それじゃ父親は前川清なのかね」などとトンチンカンなことを言っている人までいた。

 僕は何も知らなかったので、世間がそこまで驚く「藤圭子」とは一体何者なのかと当時不思議な気持ちを抱いたのでした。

 それから十年以上の月日が流れ、再び「藤圭子」の名前を耳にする日が来る。

 その時、僕は37歳で報道機関でアルバイトをしていた。ニュース速報で歌手の藤圭子さんが新宿のマンションの13階から投身自殺したという一報が入ってきのだ。

 2013年の夏の午前だった。


 ここに「藤圭子」とは一体何者なのかという十数年来の宿題が残された。

 僕はインターネット上にある動画サイトを見つけて、遅ればせながら若き日の藤圭子の歌を聞いてみた。すると、何かちょっと恐ろしいいような昭和という時代の「暗さ」と「刹那さ」、それ故に、小さいけれど青白く輝く「熱」のようなものを発見した。あの少しかすれた引っかかるような歌声に魅了され、生まれて初めて演歌を好きになった。

 僕の母と祖母がよく言ってたものだ「昔は皆貧乏だった」と。

 藤圭子さんもかなり貧しい家に育ったようだが、一躍スターになると、若くして何千万という給料を貰うまでになった。誰もが羨むサクセスストーリーかもしれない。しかし、周囲の大人たちは金の成る木を手に入れたと眼の色を変え、実の父さえも娘にたかった。そのことで少なからず心を痛めたそうだ。

 思うに、純粋無垢な精神の持ち主だったのだろう。それゆえ芸能界にうまく適応できずに苦しんだのかもしれない。

 今夜は稀代の歌手を懐かしみ、献杯の栓を抜くとしよう。